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2007年3月30日
2008-03-28 Fri 21:02
2007年3月30日の記事を公開にしました。
この記事を書いた日からもうすぐ1年になります。
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「無償の愛」についてメモ
2008-03-28 Fri 17:04
言葉を理解することは難しいと思った。
その言葉を知っているのと理解しているのとでは大きな差がある。
例えば「愛」とか「努力」とか「忍耐」とか。

「愛」について言えば、
はじめに「愛」そのものがそもそもあまりに主観的な概念だから、
理解すること自体が不可能なのではないかと思われるので、
ここでは「愛」の前に「無償の」をつけたいと思うが、
この「無償の愛」を言葉では知っていても、
本当に理解している人はどのくらいだろうかと怪しむ。
私に限っていえば「無償の愛」を理解していない。
それは育った環境が影響しているのだが、
他にも多くの人がこの「無償の愛」を理解していないのではないかと思う。
実は理解している「つもり」になっている人が多いのではないかとも思う。

私は人は基本的に利己的なものだと思っている。
それは人も動物だからそう思う。
だから正直「無償の愛」なんて人間が生み出した単なる理想に過ぎないのではないかと疑っている
そして「無償の愛」を理解していない私はいまとなっては「無償の愛」の幻に踊らされることなく、
ましてや自分の母親の「無償の愛」なんて信じていない。
「母の無償の愛」といわれる背景については、
その母親の「努力」や「忍耐」の賜物だろうと考えているが、
しかし人は多くの場合「無償の愛」を間違って捉えているように思う。
例えば「努力」や「忍耐」の存在無しに「無償の愛」が「ある」ものと思っていること。
とくに怠け者の母親はこれを信じて疑わないだろう。
だから頑張ってもいないのに自分は子供に「無償の愛」を与えていると思い込んでいる。
重みのない「愛している」という言葉もときに使って。
子供からしたら腹が立つだけだ。
(出来ることなら子供の側も「母の無償の愛」を信じなければいいのだがそれは難しいだろう。)
いつか子供は母親が偽善者だとわかり苦しむ。
(境界例者が偽善という言葉を嫌う理由もここにあるかもしれない。)

人は「努力」や「忍耐」を嫌がる。
苦痛なのだから当たり前だ。
この嫌がる態度にも意図的なものと無意識的なものがあり、
やっかいなのは無意識的なもので、
子供に対し怠惰な母親はこの無意識を自分に都合良く使うように思う。
夫が最近よく口にする言葉で私もその度にはっとさせられるのだが、

「できない」のと「やらない」のは違う。

怠け者の母親には痛い言葉だ。

ときどき、
他人のもので「無償の愛」にみえるものがある。
そしてそこには確かに「努力」や「忍耐」が存在するとして、
ただ母親も人間だから「努力」や「忍耐」は無限にできるものではないだろう。
そのためたまに失敗もする。
でも子供はきっとそれを許す。
むしろ失敗した母親を愛おしく思うのではないだろうか。
母親を励まし気遣うのではないだろうか。
しかし子供が母親にそんなふうに優しくできるのは、
母親が常日頃から子供である自分に対し「努力」や「忍耐」を惜しまず頑張ってくれていることを知っているからだ。
(怠惰な母親は「努力」や「忍耐」無しに自分へのこの優しさを子供に要求する。少なくとも私の母親はそうだった。)

母親が「努力」や「忍耐」を惜しまず懸命に子供を育てれば、
子供はその「努力」や「忍耐」に相応しく大きく成長するだろう。
しかし母親が子育てに怠けていれば、
子供もそれなりの人間にしか育たない。
そして、
「無償の愛」とは「努力」や「忍耐」無しには軽々しく語ってはいけないのかもしれないと思う。

私の母親は専業主婦だったが家事をしなかった。
ほとんどご飯も作ってくれなかったし、
洗濯物はいつも山積みだった。
別に大家族ではなく。
学校から帰るといつも寝ていて、
頬に枕の痕がくっきりついた寝ぼけ眼で「おかえり〜」と言われた。
私はあの不愉快な感じをいまも覚えている。
「お母さんうつだったんじゃないの」
そう言う人もいる。
そうかもしれないと私は思う。
しかしもしそうだとしたらそれなりに子供への接し方があったはずだ。
母親としての自覚がほんの少しでもあるのなら。
そうした部分で私は自分の母親は怠っていたと思っている。
私の母親は謝らなかったのだ。けして。
家事を怠っていることを私が指摘するとヒステリーを起こした。
大きな声で怒鳴りつけたり、
物を投げたり、
私の物を壊したり、
家の物を壊したり、
脅したり、
自分の非を認めなかった。
その母親に数年前だが「愛している」と言われた。
私はそれのあまりにインチキ臭さに吐き気がした。
子供に愛を注いでいない親は子供に愛していると言ってはいけないものなんだなと思った。
私の母親は「母の愛」という言葉は知っていてもそれを理解はしていなかったのだろう。

昨日のことだが、
夫が言った。
「できない」って最強の言い訳だよね。
私は可能な限り「できない」をしない生活をしなくちゃと思った。
そしてそのためには薬も必要だと思った。
そもそも薬ってそのためにあるんだし。
プラセボでもいい。
プラセボなら少量でも頑張れるから万々歳だ。




なんだかぜんぜんまとまっていないのだけれど、
この辺でこの記事は終わりにします。
(いつか上手くまとめられたらまとめるかもしれません。)
最後まで読んでくださった方ありがとうございます。
中途半端でごめんなさい。















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現状
2008-03-23 Sun 01:20
幸せなときの中にいて、
なにも悩みがない顔をして過ごしている。
実際悩みなどなくて、
いまさら小さなことにはこだわらなくなった…ように思う。
「ひらきなおり」
を手に入れて、
ずいぶん生きるのが楽になった。
大人になるとはこういうことか?

自分の位置を知って、
その自分を上手くコントロールする術を獲得していく。

いくつかの選択肢を持ち、
選択肢は多いほどいいから頑張って学び、
選ぶ。
道。
あまり慌てず、
焦らず、
強いられた難問は解決できるものと信じて、
落ち着き、
取り組む。

人は敵と味方だけではないということを知り、
受け入れる。
笑をくれる人、
確かな情報をくれる人、
共感や理解を示してくれる人、
一緒に泣いてくれる人、
あたたかな温もりをくれる人、
正しい道に導いてくれる人、
あるとき敵だと思っていた人が味方になった。
味方だと思っていた人が敵になった。
でもよく考えて、
そうした思考が間違いだと知る。
人間関係は白黒ではなく、
グレー。

納得がいかないことの方が多い。
それを知る勇気を持つ。
でも叫ばず、
黙る忍耐を持つ。
態度や言葉ですぐに答えを出そうとしなければ、
やがて自分や周りが見えてくる。
そこに本当に自分が求めていた答えがきっとある。

人を許し、
人を信じ、
人を認める。
そうした関係をきっと多くの人が歓迎している…
社会。

過食してもいい。
しなくてもいい。
自分の明日のために吐いた方がいいならそうすればいい。
まだ、
治っていない。
でも、
焦ってもしょうがないし、
そのうち体力の限界がくる。
だからこの苦痛は永遠じゃない。

いろんな人がいていい。
その人が誇りを持って生きているのなら。
だから私も生きていていい。
たぶん。
そう思うようになる。
自分に自信を持てるように、
これからを生きていかなくちゃ。



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希望
2008-03-14 Fri 15:51
「希望」

私はこれからの人生でこれだけはけして忘れずに生きていく。
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彼の言葉
2008-03-14 Fri 15:48
「ボタンはいい質問をする」
「頭がいい」
「えらいね」
「がんばったね」
「たくさん本を読みなさい」
「子どもが出来たら、俺とボタンの子供だから相当頭のいい子だよ」
「子供はボタンが産むんだからね。子どもを産むということはすごいことだよ」

彼はたくさんの「希望」をくれます。

私は頭もよくないし褒められることなど何一つしていないし、
ぜんぜん頑張っていないのに。
子どもだって産む自信はないし。

彼の言葉はいつも明るくて私に「希望」をくれます。

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過食地獄
2008-03-11 Tue 19:40
どうしたら過食地獄から抜け出せるだろう。
医者に掛かっていない今の状態がいいのか悪いのかもよくわからない。
でもまた医者に掛かったところで結局は薬物療法だ。
薬をのみはじめたとしても一時の晴れ間を見るだけだろう私の場合。
薬に体が慣れてしまえば晴れ間を見続けることは難しくなると思うし。
それに私は薬に対する抵抗感が結構あるから、
自分の感情が薬によって左右されるのが不気味でならない。
ああいう不自然さはどうしても受け入れがたいものがある。
(躁転を起こしていたのかもしれない。)
あと副作用の吐き気はたまらなく不快だ。
吐き気の副作用のない薬に対してもそれは同じで、
舌に残るざらっとした感触や鼻に伝わる独特な粉っぽい匂いを思い出して、
今では目にするだけで少し具合が悪くなる。
といっても精神科薬はやっぱり好きなのだけれど。

(でもリタリンを死に物狂いで手に入れようとする人たちとは好きの度合いは違う。
依存の「好き」は苦しくて辛い。
本当に「死に物狂い」だ。
リタリンの乱用、依存に関するニュースをときどき目にするけれど、
根はかなり深いと思う。
一部の精神科医の不誠実な治療態度が明らかになって、
医者を信頼し治療を委ねるという時代ではなくなってしまったのかもしれないと思う。
でも患者には良い医者と悪い医者を見分けることは簡単ではないし、
まして薬の知識をはじめから持っている患者はほとんどいないのだから、
事前に防ぎようがないだろう。
精神科医の怠慢…。
この責任は重い。)

溜息ばかりが出てしまう。
過食地獄。
過食嘔吐も依存だ。
たぶん精神依存だと思うけれど。
依存症はきっかけは大したものでなくても、
一度陥ってしまうとそこから抜け出すことは困難だ。
たくさんの時間とお金と必要とするし、
忍耐強くなければならない。
また信頼や愛などを失うことも多いし、
最悪の事態には命の危険にもさらされる。
いいことなど一つもないのだ。

昨日も過食、
今日も過食、
そして明日も…
私は食べて吐くを繰り返して、
一体私とはなんだろう。
胃の正体は?
変な通過儀礼の毎日。
存在を否定したくなる。
今の私に価値なんてないだろう。




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悲劇のヒロイン
2008-03-08 Sat 18:36
「かわいそうな自分」でいい。
ブログの中では。
自分勝手な言いたい放題でいい。
我慢なんてしない。
それで現実の日常が安定するなら、
結構じゃないかと思って甘えている。
自分を諦めている。
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メッセージ
2008-03-05 Wed 23:13
私も死にたいですよ。
私も摂食障害で境界例の診断下されているもの。
せめて自分が境界例だと知らなかったらどれほど幸せだったかと思う。
でもそうしたら自分自身や家族に振り回された末に自らを殺す運命になったかもしれませんね。
私の未来は「境界例」故ある意味そのレッテル故に絶望的で、
「救い」を見出すことが難しくありますが、
「境界例」のレッテルがなかったらそれはそれで絶望的に「救い」はなかったように思うのです。

生きていくしかありません。
理不尽で理不尽で怒りに狂って頭がおかしくなりそうな夜が何度続いても、
他人の顔に要らぬ仮面を見出して不信感で心が寒くなっても、
自分を痛めつけ大切な人を痛めつけ地獄を見ても、
生きていくしかないと思います。

安心(治癒)を獲得するまで、
「救い」を求め続けること、
自らを「助け」続けること、
第一に自分の人生を諦めないこと、
そして親の愛を諦めること、
自分に向けられた人の愛を信じること。

現実はただただ辛いですが、
結局そういうものだと思います。

もしかしたら、
先天的に境界例の脳にはなんらかの欠陥があるのかもしれません。

でも、
欠陥があろうとなかろうとあなたも私も今を生きなくちゃならない。
苦しみは変わらず、
社会の冷ややかさは変わらず、
親を憎まなくちゃならない過去が追ってくるのも変わらず。

我慢。

虚しくても、
虚しくても、
虚しくても、
我慢。
そうしていたら、
きっと良いことがありますよ。



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春に思う
2008-03-03 Mon 11:52
もし、
境界例が先天的なものであれば、
そこに救いがあるのかと問うと、
ない。
別になんにも変わらない。
今は。
私はただもがいて進むだけだ。
とにかく。
自分の存在を肯定し続けて自分の行動は疑い続けて進む。

ときどき、
主治医が優しかったことを思い出す。
「ああ、あの行動は愛情からきたものだ」
そうして救われる。
ときどき、
私の生きる社会が優しかったりする。
「許されているな、受け入れられているな」
ほっとする。

春の来るのが少し怖いと思ったのは初めてだ。
離人感が空気に溶け込み、
喜びも悲しみも曖昧に揺らめく。
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